ニュートラル
いわく。
しょせん世の中男と女。
全ての人間は生物学的にも男か女として生まれてくる。
ごくまれに自ら性別を転換する人間もいるが、ほとんどの大多数は出生時(正確には受精時)に定められた性別を当然の如く受け入れ、その基盤の上に自らの個性を確立してゆく。
しかしもし仮に、性別を自由に選べるとしたらどうだろう。
つまり"性別選択の自由"。
もちろん産む側の権利ではなく産まれる側の権利として。
それが全ての出生児に与えられる法律上の人権になったとしたらどうだろう。
妊娠時に投与される遺伝子薬により、第一次および第二次性徴の発現を人為的に抑制し、性別選択のための一定の猶予期間(ジェンダーモラトリアム)が全ての子供に与えられることになったとしたらどうだろう。
例えばランドセルをかたかた揺らせて走っていく子供。
そんな子供に声をかける近所のおばさん。
「こんにちは。マーちゃん」
「こんにちは。三軒茶屋のおばさん」
「もう性別は決めたの?」
「・・・まだ」
「そうなの。でも、もうそろそろ決めなくっちゃねぇ」
そんな挨拶がなにげない街角の一風景になることだろう。
また、モラトリアム期の子供を有する家庭では、当然その両親も内心気が気ではないだろう。
うちの子供がどっちの性を選ぶのか。もちろんどちらの親にもそれを強制する権利はない。
だから、例えば息子を欲しがる父親はこんな風に子供に語りかけるかもしれない。
「男はいいぞぉ。マー坊」
もちろん無邪気に問いかける子供。
「例えば?」
が、いざ例を挙げる段になると、ふと考え込んでしまう父親。
よくよく考えれば、もはや男に出来て女に出来ないことなどない時代なのだ。
「例えばだな・・・例えば、どこでも好きな時に立ちションが出来る」
「立ちションって?」
「あなた!」
当然聞き耳を立てていた母親は目くじら立てて割って入るだろう。
「下らないこと教えないでよ!」
「なにが下ら『下らないじゃない!」
「それに犯罪よ。軽犯罪! どこでも好きな時にだなんて」
そんな様子に目ざとく両性の力関係を見抜いた子供は最終的に女として生きていくことを決断するかもしれない。
あるいは、そんな両親の痴話喧嘩を見るにつけ"どっちもどっちだよなぁ"などとモラトリアムが過ぎてもなかなか決断できない子供も出てくるかもしれない。
そんな子供には親がこう詰め寄ることになるだろう。
「さぁ、今日こそ選ぶんだ。マー坊」
「男か女か。ブルーかピンクか」
「どっちでも好きな方を取りなさい」
そう言って子供の目の前に突き出された掌には二個の遺伝子薬。
男の性徴を発現させるブルーのピルに、女の性徴を発現させるピンクのピルだ。
でも、そこまで両親に詰め寄られても頑なにその服用を拒否する子供さえ出てくるかもしれない。
いわく
「どっちかじゃないとダメなの?」
つまり選択できないのではなく、選択しないことを選択した子供たち。
後にニュートラル(中性)と呼ばれる新人類たちだ。
第三の性の誕生である。
もちろんニュートラルに生殖能力はない。
が、その分、男女間の様々なトラブルおよび煩悩に悩まされることもない。
ある統計によると人がその一生で費やすエネルギーのおよそ30パーセントは性的な(つまり男女間の)事柄にかかわっているとされる。
つまりニュートラルたちは30パーセントも余分に旧人類より自由に消費できるエネルギーを生まれながらに与えられていることになるのだ。ニュートラルたちはそれを"性の呪縛からの解放"と呼んだ。
そして、その解放された有能さで社会的にも急速に頭角を現してゆく目覚しいニュートラルたち活躍ぶりを目の当たりにして、ますますニュートラルを選択する子供たちが増えていき、それに危機意識を募らせた旧人類たちは"性別を選択する自由"には"性別を選択しない自由"は含まれないという主張を裁判で繰り広げることになるだろう。
後に"ニュートラル闘争"と呼ばれる長い法廷闘争の始まりである・・・
つづく。