引きこもり2
ある日。
朝早く母さんにたたき起こされた。
「悪いけど手伝って、ヒロシ」
寝ぼけ眼をこすりながら母さんについていくとそこは兄ちゃんの部屋だった。
母さんは合鍵を使ってドアを開け、驚いたことに声もかけずに中に入って行った。
今にも兄ちゃんの怒号が轟くのではないかとビクビクしていた僕に母さんは中から手招きして言った。
「だいじょうぶ。ぐっすり眠ってるから」
ゴミやコミックや食べかけの夜食が散乱し、すえたような臭いのする薄暗い部屋の中。
母さんは万年床の上で眠りこけている兄ちゃんの布団を引っぺがしながら言った。
「そっちの足、持ってくれる?」
眠っている間に兄ちゃんを部屋から運び出すつもりだ。
でもどこへ?・・・五年間も引きこもっている兄ちゃんを・・・
「外に車を待たせてあるから」
僕の疑念を見透かすかのように母さんが言った。
でも、もし途中で兄ちゃんが目を覚ましたら・・・
「だいじょうぶ。あと六時間は目を覚まさないから絶対に」
六時間?・・・絶対にって・・・
でも二人でふうふう言いながらその巨体を外まで運び出す間じゅう、確かに兄ちゃんは泥人形のように眠りこけたままだった。
そして玄関先には一台の黒塗りの車。
運転席にも黒ずくめの男が一人、うっそりと座っていた。
後部座席に兄ちゃんを押し込んだ後、母さんは助手席に乗り込みながら言った。
「ヒロシも乗りなさい。タケシとはしばらく会えなくなるから」
しばらく会えなくなる?・・・
でも車が走っている間、母さんは何もしゃべらなかった。
運転席の男も始終無言。時折フロントミラーから垣間見えるそのいかめしい顔立ちといかつい背中・・・
そして僕の隣で何も知らずに能天気ないびきをかいている兄ちゃん・・・
もちろん何か尋常ではない事態が進行していることは分かった。
が、それが何なのかを問いかける勇気はなかった。
少なくとも僕には。
小一時間後・・・
車が止まったのは港の岸壁だった。
そしてそこには一隻の大きな船が停泊していた。
運転席の男がクラクションを鳴らすと船のタラップから一人の男が降りてきた。
母さんがぺこりと頭を下げると男は後部座席の兄ちゃんを丸太のような腕で軽々と肩に乗せた。
「さ。しばしの別れだからね」
そう言って母さんは拝むように手を合わせた。
眠りこけたまま、あたかも追加の積荷のように無造作に船の中に運び去られていく兄ちゃんに。
僕もそうした。訳も分からないまま、なぜか納得している自分がそこにいた。
"元気でね・・・兄ちゃん"
日の出前。明け色に染まる空。吹きっさらしの岸壁。巨大な船のシルエット。甘酸っぱい潮の香り。
そしてギャーギャー鳴き交わすカモメの群れ・・・
その後、男は僕らを家まで送り届けてくれた。
そして去り際に男は紙袋を取り出し無言で母さんに手渡した。
母さんは車が走り去ってから中の札束を何度も数え直していた。
ようやく僕に振向いてくれた母さんの顔からは笑みがこぼれていた。
久々に見る母さんの笑顔だった。
「さ。なんか美味しいものでも食べに行こうか」
滞納していた公共料金の支払いを済ませ、その夜からガスも電気も使えるようになった。
久々に食べに行ったファミレスのエビフライもすごく美味しかった。
全てはタケシ兄ちゃんのおかげだ。睡眠薬から目が覚めれば遥か洋上。
兄ちゃんが売られた遠洋漁業のマグロ船が日本に帰還するのは来年の春になるそうだ。