引きこもり5
タケシ兄ちゃんから電話があった。
あれから早や二年が過ぎようとしていた。
三度目のマグロ船から帰還しても何の音沙汰もなしだった。
母さんと二人して訪ねて行っても、あのアパートは既にもぬけの殻だった。
不意に後ろから母さんに花瓶で殴られた時の破片が当時のままに生々しく散乱しているだけだった。
だから僕はもう一生兄ちゃんとは会えないかもしれないと思っていただけに声を聞けただけで嬉しかった。
でも、兄ちゃんの声は少し怯えてるみたいだった。
「今そこにいるのか? あいつ」
あいつとは・・・もちろん母さんのことだ。
買い物に出かけていることを知ると、ほっとしたように僕の名を呼んでくれた。
「ヒロシ、元気でやってるか?」
すぐに僕らは会う約束をした。
いろいろ話したかったけど、兄ちゃんは何かにせかされているみたいだった。
そして
「いいか」
最後に声を落として念を押すように言った。
「あいつには絶対、このこと内緒だからな」
三日後。
隣町の指定されたコーヒーショップ。
薄暗い店内の隅っこで兄ちゃんは待っていてくれた。
男臭い無精髭に身体も一回り大きくなっていて二年前より一段と逞しくなっていた。
それでも兄ちゃんは開口一番、僕の目を覗き込むようにして聞いてきた。
「しゃべってないよな?」
僕が頷いても兄ちゃんはしばし通りの様子をじっと伺っていた。
まるで誰かの影に怯えてるみたいに。
でもそれが実の母親だとしたら・・・
父さんが出て行って以来、母さんが変わったことも事実だ。
でもやはり僕は少し悲しくなった。
"こんな親子って・・・"
兄ちゃんは気を取り直したようにいろいろ話してくれた。
今は少し離れた町の自動車工場で働いていること、働きながら自分が本当は何をやりたいのかいろいろ考えていること・・・それに兄貴らしいアドバイスまでしてくれた。
「俺はとうとう卒業できなかったけど」
「高校だけは出といたほうがいいぞ、ヒロシ」
でも何より驚いたのは兄ちゃんがなにげに差し出した一枚の写真だ。
そこには兄ちゃんと肩を並べてきれいな女の人が微笑んでいた。
そして聞きもしないのに照れくさそうに言った。
「俺のカノジョ・・・かな?」
兄ちゃんは自慢げだった。
弟の僕も少しうらやましくなった。
でもよくよく考えてみれば自然なことだった。
兄ちゃんももうすぐ二十歳だし、もともと見かけもかなりイケる方なのだ。
例えて言えばジョニーディップに日本のふりかけをまぶしたような感じ・・・分かるかな?
でもやはり、以前の兄ちゃんを知っている僕には驚き以外の何者でもなかった。
薄暗い暗い部屋で日がなコミックを読みふけり時折ぶつぶつ壁としゃべっていた兄ちゃん・・・
五年ちかく自分の部屋に引きこもったきり家族とも誰とも係わりを持とうとしなかった兄ちゃん・・・
そんな兄ちゃんをこうまで変えたもの、それはやはりマグロ船だろう。
それが象徴する荒々しい海、過酷な労働、男の世界だ。
でもそれだけではないことを僕は感づいていた。
兄ちゃんもそれだけは否定できないはずだ。
決して口にしようとはしなかったけど。
あの人の存在を・・・
もちろん次に会う日の約束もした。
別れた後、颯爽と通りを歩いていく兄ちゃんの大きな背中が嬉しかった。
でも
キキィーー!!
凄い音がして振り返ると兄ちゃんが空を飛んでいた。
次の瞬間
べしゃっ!!
ガードレールに叩きつけられた兄ちゃんが丸太みたいにごろっと転がった。
はっと我に返って僕が駆け寄ったとき、既に兄ちゃんは一人の女の人に介抱されていた。
「だいじょうぶ。死んじゃいないよ」
その声、その後姿・・・なぜかぞっとした。
母さんだった。
そして痙攣する兄ちゃんを抱き起こしながら叱り付けるように僕に言った。
「なにしてるのヒロシ!」
そして当然の如く例のせりふ。
「さ、手伝っとくれ」
見ると、路上で兄ちゃんを思いっきり跳ね飛ばしたのはやはりあの黒塗りの車だった。
そしてその運転席には、あのサングラスの男がうっそりと座っていた。