引きこもり6
タケシ兄ちゃんが救助された。
丸太につかまったまま洋上を漂っているところを漁船に発見されたのだ。
そう。兄ちゃんは四度目のマグロ船から死を覚悟の脱走を図った、つまり海に飛び込んだのだ。
極度の衰弱状態でそのまま病院に収容された兄ちゃんは辛くも一命をとりとめたが、この事件は大々的に報道されその背後にあったものも世間の知るところとなった。
そして、騙したり拉致してきた人々を強制的に過酷なマグロ漁に従事させていた船長ほか関係者数名が警察に逮捕された。
という訳で僕は一人、兄ちゃんのお見舞いに出かけた。
でも病室のドアをノックすると、出てきたのはきれいな女の人だった。
以前、兄ちゃんに見せてもらった写真の人だった。兄ちゃんはカノジョと呼んでいた。
「ヒロシ君ね」
カノジョは僕が来ることを知っていたみたいだった。
そして辺りに警戒するような視線を投げてから僕に聞いた。
「ひとり? お母さんは?」
母さんはしばらく前からいくなってしまったことを告げると、彼女は僕の手をとって噛んで含めるように話し始めた。
「ヒロシ君。よく聞いてちょうだい」
「お兄さんは今、とてもナーバスになってるの。脅えているといったほうがいいかしら」
「だから今はそっとしておいて欲しいの」
「身体のほうはだいじょうぶよ。もう心配ないわ。でも・・・心にとても深い傷を負ってしまったの」
「人間不信というか、誰も信じられなくなってるの。とくに・・・」
そう言いかけてカノジョは言葉を詰まらせたけど、誰のことを言おうとしたのかは僕にも分かった。
「だから今日のところは帰ってちょうだい。近いうちにこちらから連絡するから」
「だいじょうぶ。お兄さんにはこの私がついてるから」
その口ぶりには"あの人は私が守る"という固い決意がにじみ出ていた。
「わかりました。よろしくお願いします」
僕はそれだけ言ってぺこりと頭を下げた。
兄ちゃんにもこんな人がいたんだと分かって少しほっとした。まだ名前も聞いてなかったけど・・・
でも、そのまま帰ろうとすると
「ヒロシか!?」
ドアの中から呼ぶ声がした。
「ヒロシだろ? 入って来いよ!」
もちろんタケシ兄ちゃんの声だった。
兄ちゃんは思いのほか元気そうだった。
ベッドの上に起き上がってニコニコ笑っていた。
救助されたときは意識不明の危ない状態だったというが、今は頬にも赤みがさし体付きも以前よりふっくらして体重も増えたみたいだ。
兄ちゃんは改まってカノジョを僕に紹介してくれた。名前は清田ななみというそうだ。
「退院したら、俺たち結婚するんだ」
兄ちゃんは照れくさそうに言った。
清田さんもはにかんだような笑みを浮かべていた。
ふと窓の外を見ると桜の花びらがちらほら舞っていた。
兄ちゃんにも春がやってきたんだ。
おそい春が・・・
以来、僕はちょくちょく見舞いに行くようになった。
その度に兄ちゃんは元気になっていった・・・ように見えた。
でもある日、僕が病室に入っていくとベッドはもぬけの殻だった。
清田さんと散歩にでも出かけたのかと広い病院をぶらぶらしていると、少し離れた廊下でなにやら騒動がもちあがっていた。
辺りにはひっくり返った台車や食器類、割れたガラス片、それにトイレットペーパーなどが散乱していた。
そして人だかりの中心には、白衣を着た二人の男に羽交い絞めされた兄ちゃんがフロアに押し付けられたまま、泣き出しそうな声で喚き立てていた。
「あいつがいたんだ! のぞいてたんだ!・・・あいつが・・・あいつがぁ・・・」
そんな兄ちゃんの肩に手をかけ
「だいじょうぶ。誰もいない」
と何度もささやきかける清田さん。
「本当よ。誰もいないわ。また悪い夢を見たのね」
「でも確かにあいつが・・・窓の外からじっと・・・」
それでもむずかる幼児を優しくなだめすかすように。
「誰もいないわ。だぁれもいない。そうでしょ? 私の言うことが信じられないの?」
僕は、そのまま病院を後にした。
兄ちゃんが心に負った深い傷・・・
初めて見舞いに言った時、清田さんが言ったその言葉の意味をかみしめながら。
数日後。
「少し長引きそうなんだ」
兄ちゃんはそう言って下を向いた。
「でも・・・また来てくれよな」
そして弱々しい笑みを僕に振り向けた。
でも決して窓の方だけは見ようとしない。
今度病室を移ることになったそうだ。別の病棟の、窓のない個室に・・・
兄ちゃんの眼前でようやく開かれようとしていた世界への窓、人生への扉が・・・またしても・・・
僕は返す言葉も見つからず、ただ無言で頷くばかりだった。
一人清田さんだけが
「兄弟でナニしょぼくれてんのよ!」
明るく張りのある声を響かせていた。
てきぱきと身の回りの小間物を整理しながら。
「今度の部屋はテレビもあるから退屈しなくていいじゃない」
でも僕は気がついていた。数瞬前から。
視界の隅、窓の外の黒い斑点が見る見る大きくなっていくのを。
そして
ボゴドグワォーーン!!
物凄い衝撃音と地鳴り風圧。
気がつくと病室はなくなっていた。
もうもうと煙の立ち込める瓦礫の山へと一変していた。
覆いかぶさる瓦礫を押しのけ、やっとの思いで起き上がるとどこからか苦悶の呻き。
ウウウ・・・
傍らで真っ白にほこりをかぶった清田さんがうつ伏せに倒れていた。
虚空に差し伸べられるその震える手・・・
「タ・・タケシさん・・・」
が、慌てて僕が駆け寄ろうとした寸前
ギンッ!
振り下ろされた金属バットがその後頭部をしたたかに打ち据えていた。
「気安く息子の名を呼ぶんじゃないよ!」
そしてそこに立っていたのは
「このドロボウ猫がッ!」
母さんだった。
母さんは清田さんがガクッとなるのを見届けてから金属バットをほうりだし、近くの瓦礫の山に飛びついた。
そして、すごい勢いで瓦礫を押しのけ、とうとう半ば埋もれていた兄ちゃんの片腕をつかみあげた。
そして何が起こったのか未だ理解できず愕然と立ちすくんでいる僕にニッと振向いた。
「だいじょうぶ。死んじゃいないよ」
そしてぐったりした兄ちゃんを掘り起こしながら叱り付けるように僕に言った。
「なにしてるんだい! ヒロシ!」
当然の如く例のせりふを。
「さ、手伝っとくれ」
ふと外を見ると、以前窓のあったところは壁そのものがなくなってぽっかり大きな口を開けていた。
少し離れたところには巨大な鉄球を長々とワイヤでぶら下げた巨大なクレーン車。
そしてその運転席には、あのサングラスの男がうっそりと座っていた。