精米所のピアニスト6
北京・・・
言わずもがなのオリンピックイヤー。
いたるところで頭をもたげる鉄骨むき出しの高層ビル群。
その一角、天安門広場に程近い超高層マンションの最上階の大広間。
そこで、激変するこの国にも似たある種激烈な分散和音の調べが奏でられていた。
ショパン作"12の練習曲"第11番イ短調「木枯らし」・・・・
しかし鍵盤上をめまぐるしく駆け巡る白指の持ち主はまだ十代半ばの少女であった。
「完璧だ!」
窓際のソファから立ち上がって拍手する北京高等音楽院名誉教授、孫泰明。
「音色、リズム、情感、タッチ・・・どれをとっても文句のつけようがない」
そして何度も頷きながら
「ショパンコンクールでもまず入賞は間違いないだろう。麗妃君」
「もし君が優勝すれば2000年の李云迪(ユンディ・リ)以来二人目の中国人として」カタン
と、さえぎる様に鍵盤蓋を閉じながら
「本当にそうお思いですか? 孫先生」
少女は華奢な肩に振り乱れた長いひっつめ髪を整えながら振り返った。
そこには切れ長の目が頬の紅潮とは不釣合いなほど老成した静かな光をたたえていた。
「この程度で完璧だと・・・」
「でしたらもう先生から教わることは何もなさそうです。お引取りください」
「な!・・・」
しばし呆然と立ち尽くす孫教授。
「わしの指導ではもう満足できないということか!?」
しかしエントランスでは既に執事がドアを開けて帰りを促していた。
「これからは自分ひとりでやっていくつもりか? それとも誰か別の師匠を・・・」
前面ガラス張りの窓際に立ち背中を向けたままの王麗妃。
その小さな憂いに満ちた背中が既に一切の問答を拒絶していた。
「わし以外の誰に・・・いったい・・・」
ぶつぶつ呟きながらも憤然と出て行く孫教授。
入れ替わりに水餃子山盛りのトレイをキャスターに乗せて運んでくる執事。
そのひとつを箸でつまんでむしゃむしゃと頬張りながら少女はひとつの言葉を頭の中で反芻していた。
"天才はその歩みを止めた時点で既に天才ではない"
しかしこの虚しさは何なんだろう。
たかが中国12億の頂点に立ったところでどうだというのだ。
ピアノは父の言うとおり、私にとってただのお遊びでしかなかったのか・・・
そこへずかずかと入ってくる小太りの中年男。
携帯を手になにやら盛んに指示を出しながらも上機嫌だ。
「とうとう孫先生をクビにしたそうじゃないか麗妃」
「やっとわしの跡を継ぐ気になったか」
男は携帯を閉じるや青水晶のテーブルに山盛りの水餃子を数個鷲づかみにしてその口の放り込んだ。
がしがし咀嚼する頑丈な顎。分厚い唇から大理石のフロアにぽたぽた滴る肉汁。
「お前がその気なら、すぐにでもプロジェクトを一つ任せてやるぞ」
「ちょうどオリンピックスタジアムの建設工事が『勘違いしないでお父様」
少女はいらいらとさえぎった。
「孫先生にはしばらく休養をとってもらうだけ。ピアノをやめたわけじゃないわ」
「なんだそうなのか・・・わしはてっきり・・・」
そこにピロロロと鳴って携帯を取り出す父親。
「誰だって?・・・リヒター?・・・ボイテロ?」
その名を聞くや父親から携帯をひったくるようにして少女。
「はい私です! リヒター先生!」
それまでの物静かな口調が一変している。
「はい!・・・・はい!・・・・分かりました!」
携帯を閉じるや少女は真顔で父親に向き直った。
「お父様。私しばらく東京に行ってまいります」
「東京?・・・なんでまた・・・」
「あら。若いうちに広い世界を見ておけ。それがお父様の口癖だったでしょう?」
「そりゃそうだが・・・」
そのまま小走りに部屋を出て行く少女。
父親にはその足がいつになく軽やかなスキップを踏んでいるように見え、つい呼び止める機会を逸してしまった。
目指すは東京!
王麗妃は少し興奮していた。
待ちに待ったリヒタースクール!
進路を決めるのはそれからでも遅くはない。
そしてリヒター先生の言った一言が何より16才の少女の心を浮き立たせていた。
"君に匹敵する才能・・・"
あのリヒター・ポイテルスパッヒャーがそう言うのだから間違いはないだろう。
いったいどんな人なのかしら・・・そしてどんなピアノを・・・
"ああ! 世界はまだまだ広い!"
そのごくごく当たり前の認識が若くして枯れようとしていた少女の心を瑞々しく蘇らせた。
一方、最上階大理石の大広間では・・・
でっぷりした父親の背後に影のように寄り添うもう一人。
「聞いたとおりだ。お前も東京へ飛べ」
「はっ!」
「もし娘に万が一でも何かあったら・・・分かっているだろうな?」
「御意!」
と、大皿ごと水餃子を中空に放り投げる父親。
すかさず繰り出されるヌンチャク。
ひゅんひゅん唸りを上げ高速旋回するヌンチャク棒。
あータタタタタタタタタタ!!
中空に飛散した水餃子をことごとく弾き飛ばしあんぐり開いた主人の口にぶち込んでゆく。
大口いっぱいの水餃子を一気に呑み下すや主人の命令一下。
「よし行け!」
既に影は消えていた。