夏休み5
七合目の山小屋を出ると外はまだ真っ暗だった。
ヘルメットのライトに照らされた山道を僕と父さんはリュックを背に黙々と進んだ。
他の登山客が次々と追い抜いていくのも気にせず、後ろを行く父さんは僕のゆっくりしたペースに合わせてくれた。
斜面のごつごつした岩や石ころを注意深く避けながら、父さんに教えられたとおり急な斜面は蛇のようにうねりながら進んだ。
「父さんな・・・」
いきなり父さんが言った。
「みんなで田舎に引っ越そうかと思ってるんだ」
振り返ると父さんのヘッドライトが直接目に飛び込んできた。
光の中で父さんの口だけが笑っていた。
「どう思う?」
僕はまた前を向いて歩き出しながら言った。
「・・・いいんじゃない」
「そうか」
それだけだった。
後は二人とも何もしゃべらなかった。
黙々と頂上めざし一歩ずつ歩を進めるだけだった。
父さんに富士登山を誘われたのが三日前。
やることもなく家でごろごろしていただけなので二つ返事でOKしたのだが
富士山に登るのも初めてなら、父さんと二人だけでこんな遠出をしたのも初めてだった。
ふと気がつくと辺りがぼんやり明るくなっていた。
日本一の山の稜線も行く手に黒々と浮かび上がっていた。
頂上を間近にして知らず知らずのうちにペースが速まっていたのだろう
「急ぐな! マイペースだ」
また後ろから父さんの声。
「時間はまだある」
見ると道端にしゃがみこんで携帯用酸素ボンベを口に当てている人もいた。
そう。油断は禁物。こんなところで高山病なんかにかかって引き返したくない。
僕は目の前の斜面だけに意識を集中し、前よりいっそうゆっくりと一歩一歩踏みしめるようにして歩いた。
そして・・・
ロープ伝いに最後の梯子道を登るとそこが頂上だった。
「間に合ったな」
父さんが後ろで微笑んでいた。
僕と父さんは汗を拭き拭き見晴らしのよい山頂の一角に陣取った。
白みかけた空の反対側には未だ星々が微かに瞬き、眼下には鉛色の広大な雲海が広がっていた。
と、その一部が見る見る明け色に染まり、最初の光の矢が夜の名残に止めを刺すかの如く雲海を真っ二つに引き裂いた。
「ご来光だ」
父さんが静かに呟いた。
周囲の登山客の間にもどよめきが広がり拍手が沸き起こった。
でも父さんは、それにじっと目を凝らしたまま静かに手を合わせた。
僕もつられるように手を合わせた。
"いいことがありますように"
自然とそんな願いが沸き起こった。
"僕らみんなにいいことがありますように"
火照った肌を心地よくなでてゆく風。
闇を追い払いあまねく広がってゆく光の海。
そして雲海のはるか遠くに凛々しく居並ぶ山々。
それが全てが僕らの新しい門出を祝ってくれているように思えた。
父さんは未だ手を合わせたままじっと目を閉じ一心に願いを凝らしていた。
思えばここ数年、いろいろなことがあった。
おばあちゃんの死。父さんの会社の倒産。僕の不登校。母さんの出産。新しい家族・・・
父さんや母さんは僕なんかよりずっとずっと苦労や心配が絶えなかったはずだ。
でもこれからはもういいことしか起こらない。
そう。僕ら家族はもうだいじょうぶ。
そんな気がした。
八月十八日 晴れ
地震で家が倒壊した。
一階に寝ていた母と幼い妹は即死。
はるばる富士山に登っていた僕と父さんだけが助かった。